砂金から不純物を一つずつ取り除いていく、
そして、雑じり気がなくなり、
いつか純粋な金となる。
事上磨錬とはこの作業と似ている。
人の心の中には良心があると同時に、
また私心もある。
心の中にある私心を一つずつ、
克服して、常に良心で生きられるようにする。
この修行を日常の中で実践しようとすること、
これを事上磨錬という。
王陽明と弟子が、
こんなやり取りをしている、
「先生、
(修行の中で)静坐をしているときは、
良い感じでいられるのです。
それが、普段の生活の中では、
ついカッとしてしまったり、
私心にとらわれてしまうんです。」
「君はなんのために修行しているんだ。
日常生活の中で、良心で生きれるように、
修行しているんだろ?
いくら静坐しているときに、
いい感じになっても意味がないよ。
日常の中で、私心にとらわれないよう、
修行すること。
それでこそ、意味のある修行だよ」
陽明はそう説明する。
禅宗では、修行として、
掃除が非常に重視される。
これは王陽明のいう、
事上磨錬に近い考え方だ。
掃除をしている中で、
とても汚れてところがあるとする、
触れるのも気がひけるような汚れだ。
その汚れを見て見ぬ振りをしたい、
できれば自分はやりたいくないなぁ、
そんな気持ちが自分の中に芽生えてくる、
そんな弱い気持ちに打ち克ち、
その汚れを綺麗にする。
このとき、
目に見える汚れを綺麗にすると同時に、
自分の心の汚れ(弱い心)も綺麗になっている。
自分の心を直接磨くことはできないけれど、
このようにすると心を磨ける。
王陽明は言う、
普段の仕事や生活の中で、
本来やるべきことはこれだと、
分かっているのに(良知)、
サボりたいなぁとか、
人に優しくしてあげるべきなのに、
逆に怒ってしまったりとか、
そんな自分の弱い心に流されそうになる。
そんな心に流されず、
良知が示すとおり、
それを行動に移すこと(致良知)で、
心が磨かれていくと言うのだ。
いつ何時でも、良知で生き切れたら、
これほど幸せなことはない。(意味実現欲求etc)
日々の生活は、自分の心を磨く場なのだ、
幸せにつながる道なのだ、と言う。